「わたしの可愛い人――シェリ」(2009)を単館ロードショーの最終日に見て 山田宏一(映画評論家)さん

「わたしの可愛い人――シェリ(2009)を単館ロードショーの最終日に見て 
山田宏一(映画評論家)さん

公開劇場はこちら http://www.cetera.co.jp/cheri/


すばらしかった。「危険な関係」(1988)以来のスティーヴン・フリアーズ監督、ミシェル・ファイファー主演のフランス文芸もの――女流作家コレットの文名を高からしめた小説「シェリ」の映画化です。フランス映画ではなく、全篇が英語のせりふとナレーションによる作品なのに、不思議にフランス的な、そして文学的な香りのある、佐々木涼子氏のコレット評(「集英社 世界文学大事典」)の表現そのままに「豊かな官能と繊細な抒情性」にあふれた、見ごたえのある傑作になったと思います。シェリの役をもし20歳のジャン=クロード・ブリアリが演じていたら、どんなに素敵だったろう、などという無い物ねだりの夢想、妄言はさておき、年上のココット(高級娼婦)を演じるミシェル・ファイファーの恋やつれならぬ恋づかれした肉体のエロチシズムには圧倒されました。

アンヌ・ヴィアゼムスキー著「少女」を読む 山田宏一(映画評論家)さん

アンヌ・ヴィアゼムスキーは18歳のときにロベール・ブレッソン監督の『バルタザールどこへ行く』(1966)で女優としてデビューしたあと、ジャン=リュック・ゴダール監督と結婚し、『中国女』(1967)のヒロインになったことは周知のとおり。ゴダールとは1979年に離婚し、いまは作家として活躍していて、その10冊目の小説「少女」の邦訳(國分俊宏訳、白水社)が出版されました。「小説か、実録か?」と本のオビの惹句にもうたわれているように、映画『バルタザールどこへ行く』の舞台裏(ハリウッド用語というか、英語でいうbehind-the-scenes)を描く実録実名小説として読むこともできます。むしろじつに赤裸々な、ヴィヴィッドな、じつに映画的な回想録と言ってもよさそうです。
バルタザールどこへ行く』の撮影中にプロデューサーのマグ・ボダール女史が「映画監督のジャン=リュック・ゴダールを連れて昼食にやって」くるというくだりがあり(アンヌ・ヴィアゼムスキーゴダールとの出会いが印象的に語られます)、ちょっと長くなるけれども引用させていただくと――


ロベール・ブレッソンは不機嫌なままだった。彼に相談もなく、しかもぎりぎりになってセッティングされたことだったからだ。若いゴダールが、年長のブレッソンを熱狂的に崇拝しており、雑誌カイエ・デュ・シネマのためのインタビューもしたい、というのがその口実だったが、ロベール・ブレッソンは「私にそんなヒマがあるとでも言うのか!」と激怒していた。[……]
「それにしても、どうしてだろうな……。あのジャン=リュック・ゴダールというやつの映画は見たことあるかい?」「いいえ」。私が知らないので、彼は安心したようだった。[……]
確かにジャン=リュック・ゴダールの映画は見たことがないけれど、その噂はよく聞いている。私の周りの大人たち、それに同じ年の友人たちの何人かだって、封切りと同時に映画館に駆けつけている。称賛する人もいれば、けなす人もいて、その両陣営のあいだで果てしない議論が、というよりもむしろ口論が、繰り広げられている。この映画監督のことになると、みんなまるでアルジェリア戦争ド・ゴール将軍の話をするときみたいに興奮している。要するに、彼の映画は絶対に見るべきであり、その上で、必ず賛成か反対か、どちらかの立場を表明しなければならないのだ。そうしなければ、時代の空気に、流行に乗り遅れているとみなされてしまう。[……]
私はずっとぶすっとしたままだったが、ロベール・ブレッソンもそうだった。プロデューサーのマグ・ボダールはその女性らしい魅力を惜しげもなく披露し、この奇妙な昼食会をもっと楽しく輝かせようと見事な手際を発揮していたが、それを変えさせるには至らなかった。
ジャン=リュック・ゴダールは、やや甲高い声で、どもりながら、今私たちが撮影中の映画について、大変興味を持っていると切り出した。ロバと若い娘の悲劇的な運命を結びつけるのは、彼にとって非常に感動的で詩的な発想に見えるらしかった。ロベール・ブレッソンは黙って相手の話を聞き、ときどき同意のしるしにうなずくだけだった。彼のこの礼儀正しく無邪気な様子は、私には解読し慣れたものだった。彼はどうしようもないほど退屈しきっていたのだ。ジャン=リュック・ゴダールは感づいていたのだろうか。食事を始めた頃にはまだ表に見せていたごくわずかな自信が、すっかり消え去っていた。今ではもうお世辞の言葉も尽き、話題もなくなってしまったように見えた。[……]
プロデューサーのマグ・ボダールだけが懸命に会話を盛り上げようとしていたが、もはや会話と言えるものは存在していなかった。[……]
ロベール・ブレッソンは声を張り上げ、社交的な調子で、「ところで、君、ジャン=リュック、新しい映画を撮り始めるそうじゃないか。ああ、それはいいことだ。何というタイトルだったっけかな。いや、いや、いや。私に思い出させてくれ……。『気狂いピエロ』? ああ、そうだ。『気狂いピエロ』だろ? いや、それはすばらしいよ!」 ジャン=リュック・ゴダールはもごもごとお礼を述べ始めたが、ロベール・ブレッソンは大領主が家臣にするように軽く手を振って黙らせた。撮影隊が彼を待っていた。[……]
ジャン=リュック・ゴダールはそれからまだ一時間も私たちのあいだをうろちょろしていた。必死に家族を探す孤児みたいな悲しげな表情で。時折、彼の視線がやや長めに私の上に注がれるのを感じることがあった。[……]もしそのとき、誰かが私に、一年後にまたこの人物に会うだろうと言ったら、そして1965年8月のこの日、彼がここに、『バルタザールどこへ行く』の撮影現場に来た本当の理由を、彼自身の口から聞くことになるだろうと教えてくれたとしたら、とても驚いただろうと思う。彼自身の言葉によれば、フィガロ[紙]に載った私の写真に一目ぼれしたのだという。そしてロベール・ブレッソンに会うというのは、私に近づくために口実にすぎなかったのだという。けれども、それはまた別の話だ……。


アンヌ・ヴィアゼムスキーが、その後、初めてゴダールの『気狂いピエロ』(1965)を見て、つづいて『男性・女性』(1966)も見て、「一年後にまたこの人物に会う」ことになる「別の話」は、拙著「ゴダール、わがアンナ・カリーナ時代」(ワイズ出版)の『中国女』の項に、別の視点から(当然ながら)書いたこともついでながら、付記しておきます。

少女

少女

ゴダール、わがアンナ・カリーナ時代

ゴダール、わがアンナ・カリーナ時代

『ゴダール・ソシアリスム』を見る 山田宏一(映画評論家)さん

ゴダール・ソシアリス
http://www.bowjapan.com/socialisme/ 2010/12/18公開



ゴダールにはもうお手上げ、何もかもちんぷんかんぷん、判断停止をきめこんで睡魔とのたたかいを覚悟しつつ試写室へ。
ところが、音響効果のあまりのすさまじさに眠るどころじゃない。まさに「ゴダールゴダールだ」ということか。新作の『ゴダール・ソシアリスム』の音響は尋常ならず、たぶんゴダールがものすごく怒っているらしいことだけはわかった――などとも言えませんが、感じられました。何を怒っているのかはよくわからないので――などと言ったとたんに怒りの鉄拳ならぬ怒声が飛んできそうです! 画面せましとばかりに右に左にフレームアウトして怒鳴り散らしているような印象をうけます。『彼女について私が知っているニ、三の事柄』(1966)のころのボソボソと低い声でつぶやくような、ささやくようなナレーションは難解ながら詩情のようなものが感じられたものです。現代詩を暗く静かに朗読するような味わいがあったと思います。
ゴダール・ソシアリスム』は全篇これ響きと怒りの罵声を浴びせるかのごとし。
かつてヌーヴェル・ヴァーグ(新しい波)の三銃士とみなされて戦後の映画史の流れを変革したクロード・シャブロルフランソワ・トリュフォージャン=リュック・ゴダール、それにジャック・リヴェットエリック・ロメールを加えた五人組のうち、すでにフランソワ・トリュフォー1984年に52歳で、エリック・ロメールは今年、2010年のはじめに89歳で、クロード・シャブロルもついこのあいだ、(2010年)9月12日に80歳で亡くなりました。ジャック・リヴェットは82歳で、ゴダールは80歳で、健在です。リヴェットは昨年、東京国際映画祭に出品された新作(そのあとまたもう1本撮ったようですが)を見たところでは、かなり力がなくなっているような印象を受けましたが、『ゴダール・ソシアリスム』を見るかぎり、ゴダールは まだまだ死にそうにありません。100歳をこえてなおかくしゃくたるポルトガルマノエル・デ・オリヴェイラ監督(『ブロンド少女は過激に美しく』)の悠々自適の静かさとは まったく対照的に、といっても、その野蛮な若々しさという点では共通しているのですが、年齢とかかわりなく怒り狂っている感じ。こんな映画が一般公開されるとは!
「現在の東京は、ニューヨーク以上に豊かで多様な作品の見られる映画都市だ」と蓮實重彦氏は書いています(「随想」、新潮社)。「ジャン=リュック・ゴダールの『アワーミュージック』(04)、アレクサンドル・ソクーロフ監督の『チェチェンへ――アレクサンドラの旅』(07)、ペドロ・コスタ監督の『コロッサル・ユース』(06)のように、アメリカ合衆国はいうにおよばず、ヨーロッパのほとんどの国でさえ、映画祭などの特殊なケースをのぞいて上映される機会の稀な作品が日本では一般公開されているのだから」と。

ジュリアン・デュヴィヴィエのことなど 山田宏一(映画評論家)さん

 終幕が近い映画の昭和篇――「朝日新聞」10月14日(「朝日川柳」西本空人選)に載った川柳(作者は「藤沢市 湯町潤」氏)です。ノスタルジックな、いやむしろ不吉な感じ。そのせいかどうか……いい映画に当たりませんでした。マイベストワンも何もなく、寂しい日々です。口直しに(などと言っては失礼ながら)、DVDで「クロード・シャブロル コレクション」(1968〜70年の「女鹿」「不貞の女」「肉屋」など、紀伊國屋書店映像情報部より発売)や1940年代の活力にあふれた――ハリウッド映画とは一味違う――イギリス映画(キャロル・リード監督「ミュンヘンへの夜行列車」「最後の突撃」、レズリー・アーリス監督「灰色の男」、シドニー・ギリアット監督「青の恐怖」など、ジュネス 企画より発売)を見て、映画的醍醐味を堪能しています。
 というところで、小林 隆之・山本眞吉著「映画監督ジュリアン・デュヴィヴィエ」(国書刊行会)が出版されたことを知りました。「巨匠デュヴィヴィエ、日本初の本格的研究書」とのことですが、「日本初」どころか、フランス本国でもデュヴィヴィエは戦前からの「巨匠」ながら、「本格的研究書」など出ていません。たぶん世界で初めての快挙でしょう。
 フランスの映画史家、ジョルジュ・サドゥールによれば(「世界映画史」、丸尾定訳、みすず書房)、戦前のフランス映画の「四巨匠」とはルネ・クレールジュリアン・デュヴィヴィエジャン・ルノワールマルセル・カルネで、デュヴィヴィエをのぞく三巨匠についての研究書はいろいろ出ているのに、なぜデュヴィヴィエだけが「研究」の対象にならなかったのか、ふしぎといえばふしぎですが、たぶん「研究」に値する「作家」としての決め手のようなものを欠いていたからだろうと思います。ハリウッド的に言えばプロフェッショナルとよばれるような徹底したエンターテインメント(娯楽作品)の職人監督でありヒットメーカーであり、思いつくままに「にんじん」(1932)、「モンパルナスの夜」(1933)、「商船テナシチー」(1934)、「白き処女地」(1934)、「地の果てを行く」(1936)、「望郷」(1937)、「舞踏会の手帖」(1937)、「旅路の果て」(1938)……と数々の名作のタイトルを列挙できます。私が最も好きなデュヴィヴィエ作品はアメリカ時代のオムニバス映画「運命の饗宴」(1942)。いや、それどころか、戦後、フランスに戻ってからも「神々の王国」(1949)、「陽気なドン・カミロ」(1952)、「アンリエットの巴里祭」(1952)など忘れられない傑作がたくさんあります。「研究」など必要がない明快で通俗的な(ということは誰にでもわかる)真の大衆映画だったということなのでしょう。

映画監督ジュリアン・デュヴィヴィエ

映画監督ジュリアン・デュヴィヴィエ

清水節(編集者/映画評論家)さん 近況

床下で暮らしていたアリエッティのように、ひっそりと生きていきたいのだが、ぼくは時折、面倒な事態に巻き込まれる、いや、引き寄せるのかもしれない。世渡り下手で、正論を通そうとし過ぎる、と人は言う。いつも問題になるのは、「言葉」だ。自分としては、挫折を繰り返し、妥協ばかりしているつもりなのだが、世の中は矛盾に満ちていて、いまだこの国には第9地区があるのではないかと思うこともしばしば。理不尽な仕打ちに対しては、どうしても正面から向き合ってしまうタチのようだ。それでもまだ生き長らえているのは、何かしら意味があるのだろう。これまで同様、互いに敬意を払い合える人たちとの仕事を大切にしていくしかない。映画と出版を取り巻く環境はますます過酷になり、さらに激変していくだろう。しかしこれからも、アナログな老朽艦ギャラクティカを率いたアダマ艦長のように、希望の地を信じ、おそるおそる暗黒の海を航行していこうと思う。So Say We All!

「ソーシャル・ネットワーク」 清水節(編集者/映画評論家)さん評

……簡素ともいえるヴィジュアルに、セリフの洪水。それは現実に重きを置かず、自己愛に満ちどこか幼稚ゆえ、コミュニケーション不全のまま膨大な情報の海を泳ぐ彼らの世界観を表す上で、意味をもつ。……全文はこちら