フランソワ・トリュフォーと「映画」という名のヒロイン 高村英次(映画ライター)

 仲里依紗主演の「時をかける少女」(2010)は、新人タレントを売る、ってだけの安っぽいリメイクではない。コレは近年、最注目の傑作である。原田知世版(83)のヒロイン・和子にあたる“あかり”(和子の娘という設定)は、過去と現在を煩雑に行き来する原田版とは違って、過去(1974年)の時代に滞在して腰を落ち着け、愛と笑いとちょっぴりセンチな青春を体感する。ネタバレになるとは思うが、すでにDVDがレンタル中なのでガッツリ書いてしまうけれども、そのクライマックス、仲良くなった大学生の涼太が死地へ旅立つことになる長距離バスに乗り込むのを見たあかりは、「彼を絶対行かせない!」と心に決めて駆け出し、バスを止めようとする。そこに未来人のケン・ソゴルが現れて「過去を変えてはいけない」とあかりを止めるが、彼女は「それじゃ、私は現代へ帰らない!」とタイムスリップの薬が入ったアンプルを叩きつけて割ってしまう! この潔さ! この後先を考えない行動こそが青春でござる。そして、仲里依紗は青春映画のニューヒロインだ! と観客に確信させずにはおかないシーンであります。
 で、ここに現れるケン・ソゴルって誰かに似ている? と気付く人は気付く。濃茶の革ジャンを着て、ソフトな物腰で登場するケン・ソゴル。石丸幹二が演じているこの男は誰かに・・・・そうだ、この男のイメージはフランソワ・トリュフォー監督だ。あかりを助ける時の優しさや、一緒に現代に戻る時の彼女を包み込むような行動は、どこかトリュフォーを思わせはしまいか。いわゆる映画監督としてのトリュフォー、もしくはトリュフォー作品に出てくるトリュフォーというよりも、スピルバーグの「未知との遭遇」(77)に出て来るクロード・ラコーム博士、あのイメージがダブる。「時かけ」と「未知との遭遇」が同じSF映画だという共通点もありますが、それよりなにより筆者がトリュフォーその人の容姿を見たのは「未知との遭遇」が最初なんです。だからあの博士のイメージが強いのかもしれない、今もって。

 仲版の「時かけ」には、8ミリ映画を制作している映研が出て来る。SF映画らしい『光の惑星』という題名の映画の撮影風景は、ローテクでおぼつかなくて、それでいて非常に真剣。学生時代に自主制作で映画を作ってた連中(筆者)には、こういうシーンは弱い。もう、感情移入なんてもんじゃないです。
 
 で・・・再びトリュフォーですが、トリュフォーの残映を更に印象づけるシーンがあかりが現代に帰ってから出てきます。長らく音信普通だった父と会って映写機を借り、涼太が渡した8ミリフィルム(光の惑星)を映写する・・・その映写光線がピカットと放射状に光るのがいい。ポール・マザースキー監督がトリュフォー作品「突然炎のごとく」(62)のオマージュとして撮った「ウィリーとフィル」(80)のオープニングが確かこんな感じの映写光線で始まって、それは映画館の中で何かの映画を上映しているのですが、その映画こそ「突然炎のごとく」! そのスクリーンをウィリーとフィルという二人の男がじっと見てる。後に二人は、一人の女性を巡って確執し、三角関係になっていく、って話だったと思うが(1984年頃にテレビで見たっきりなので、不正確)・・・。

 話は戻って、「時かけ」ですが、その意味不明の映像を見た仲里依紗が訳もわからずに号泣する。「何だか知らないけど、泣ける」と言って。深層心理にある、消去されずに残っている涼太との思い出が、彼女を泣かせるのです。うん、とても巧い展開だ。
 こんな具合に映画や映画へのオマージュっていうのを実に巧みにやってのけている。大体が、仲里依紗の名前の“あかり”自体が、あかり=光=リュミエール=“映画”ってことなのだよね。

 そしてラストシーン……過去の世界で『光の惑星』のラストを撮った、同じ桜並木の道に彼女は一人でいる。咲き誇る桜を見て、その舗道の彼方へと歩き去っていく。そこで、いきものがかりのテーマ曲「ノスタルジア」がかかる。この詞が素晴らしい。

 忘れることなど出来ると思うの
 見馴れた背中を追いかけたい
 涙にまかせてこぼれた言い訳
 信じることさえもう出来ない
 本当の気持ちは胸にしまう 二人の明日が消える前に・・・
(1コーラスのサビ)

 愛しさを越えて哀しみを捨てて
 新しい私に今出会うの
 やがて訪れる素敵な未来に
 アナタの姿はもう見えない
 本当の気持ちは胸にしまう 一人の明日を歩くために・・・
(2コーラスのサビ)
 
・・・まさにこの映画を見て、その精神に触れて書いた、としか思えない、見事さ。主人公の感情と運命を如実に現していて、聴いていると心が併走しますな。

 しかし、ココで、もしかしたら、あの舗道の彼方から涼太がニコニコと登場してくる……なんて事はないだろうなッ、と物凄く危惧しました。何故って、それをやったら台無しなんだけど、最近の泣かせが売りの(若者受けする)日本映画ってのはそんな調子だから…。
 だから、それをしなかった谷口監督と脚本の菅野友恵に敬意を表します。
「よくぞ、やらずに耐えた。最後にあかりを“一人”で歩かせた所が最高に“大人”なんだ!」
と褒めたい。

 大風呂敷ではなく・・・「時をかける少女」と監督の谷口正晃はここ10年間の日本映画における最大の収穫だ!と信じて疑わぬ私です。
 2010年4月15日、仲版「時かけ」の大ヒットを記念して、谷口監督、大林宣彦監督、脚本家の菅野友恵を招いてのトークショーが開かれた。その時、大林監督は谷口版を褒めたそうだが、大林さんはマスコミ向けのプレスシートにも谷口版の良さをとても巧く書いている・・・で、その文の最後を「昔の『時をかける少女』と(谷口版を)二本立てで見たら、きっと凄いぜ」と締めくくっている。そうなんだ、凄いんだ! だって繋がってるんだからこの2本(洋泉社刊『筒井康隆の「仕事」大研究』、筆者拙稿で詳述)。
 だからここで今一度、大林版を見ることをお勧めする。きっと前見た時以上に感動することでしょう。初公開時に大林版を見てイマイチだった筆者も20数年を経て、この映画の素晴らしさがようやく判りました。大林監督の描きたかった真意が・・・。それが判ると、谷口版はさらにもっと凄いゼ!って事になるゼ。

※劇中に登場する自主映画『光の惑星』は、下記ウェブで見ることができます。
http://festa.hangame.co.jp/201003/tokikake/index.nhn