滝本誠著『映/画、黒片 クライム・ジャンル79篇』8/7発売

ほとんど閉じこもり状態で、いよいよ書き上がり、外にでようかと思えば、この暑さです。しかし、それにも増して山田宏一さんの熱さもすごい。小生の若さで引きこもってばかりはいられません。
外出宣言として、『映/画、黒片 クライム・ジャンル79篇』(キネマ旬報社 8/7発売)の〈序文〉を山田さんの『ゴダール、わがアンナ・カリーナ時代』を見習って公開させていただきます。〈黒片〉は犯罪映画を意味する造語なのですが、汚れたおむつとも解釈可能とわかり、嬉しくなっております。
滝本誠

映/画、黒片 クライム・ジャンル79篇

映/画、黒片 クライム・ジャンル79篇

序文 クライム・アートよ、きらびやかなれ!

パク・チャヌク『渇き』、エミール・ゾラ『テレーズ・ラカン』、エドガー・ドガ《室内》(《強姦》)、オルセー美術館「犯罪と刑罰」展、デイヴィッド・リンチの<殺人絵画>連作。


 『渇き』がエロい。
 韓国産ヴァンパイアという発想の創意工夫をただただ称賛したい。同時に、映画の一場面、病院のベッド上での性行為に珍しく心をかき乱された。ヒロインのテジュ=キム・オクビンの目の放心、視線の不安定のリアル。エロは最近の映画に実に乏しい、というか皆無に近い。裸やセックスは過剰にあっても、ぞくっと中枢を刺激するエロが消えて久しい。ところが『渇き』には生な恍惚が存在した。ヒロインの乳暈の恥じらいの色香、小ぶりながら男の手に寄せられ慎ましく隆起するあたりの白い乳房、コリアン・スキンの艶やかなふるえ。


 驚かされたのはエロス表現ばかりではない。ベーシックなストーリー・ラインとして映画に投入されたのが、フランス作家エミール・ゾラの『テレーズ・ラカン』という衝撃。19世紀の扇情愛欲小説と吸血鬼ジャンルの掛け合わせが韓国の知性、パク・チャヌクによってなされたのだ。文学史の埃の払い方が韓流は実にかっこいい。


 1867年発表の『テレーズ・ラカン』は、近代の<ノワール>扇情様式の発生点といっていい。妻が愛人と共謀して夫を殺す性欲愛欲様式。ついでに書けば、<ノワール>の歪んだ独白世界の発生点は、ドストエフスキーの『地下室の手記』(1864年)であろうか。
 『渇き』を通して、映画にひそんでいたゾラに不意打ちを食らったが、原作にあたってみると、時代、舞台の移しかえはあっても、マルセル・カルネ版『嘆きのテレーズ』(1953年)よりもはるかに原作に忠実といっていい映画化とわかる。
 ちなみにゾラの代表作に、これまたサイコパスの発生点ともいえる『獣人』(1890年)があるが、この作品を登場させた犯罪小説で記憶に残っているのがジャック・ケッチャムの『老人と犬』(1995年)であった。主人公の友人の老保安官が『獣人』を読んでいるという設定。ゾラを読む老保安官、とはアメリカのスモール・タウンではありえないことに思えるが、この保安官はどこかの大学で犯罪学を学んだことがあるようだ。蜂蜜を育てており、その知識は州でも指折りらしい。隠れインテリなのだ。もっともそんな理由をつけなくてもゾラは欲情小説として、回春という昂進機能も備えており老保安官が妄想的に淫読していたとしてもおかしくはない。
 わが国では藤原書店が無謀ともみえたゾラ・セレクション(全11巻・別巻1)の刊行を始め、読みやすい新訳で21世紀の日本にゾラをあざやかに呼び戻した。『テレーズ・ラカン』(宮下志朗訳)収録巻はセレクション1である。
 2月27日の『渇き』公開後、しばらくして、エドゥアール・マネの有名な《エミール・ゾラ》(1868年)が、三菱一号館美術館開館記念「マネとモダン・パリ」(4月6日〜7月25日)に展示された。書斎のゾラを描いた作品だ。
 してみると、2010年上半期は、ゾラ濃度がわが国でささやかながらも高まった時期といえるだろう。美術批評の筆もとっていたゾラは、批判にさらされやすかったマネを徹底擁護し、それから二人に生涯の友情が芽生えたのである。
 この展覧会で初めて目にした晩年のマネ作品《自殺》(1881年)がいい。さすが、スキャンダリストのマネらしく、死へのロマンティシズムはかけらもなく、荒々しいタッチのドライな死体の光景。ベッド上に上半身が投げ出され、両足がベッドから落ちている。白いシャツの血がちょうど画面中央にあり、右手には拳銃が握られている。血で染まったような赤の掛布が効果的だ。
 一人の仮面顔の男が血を滴らせた両手をぶらりと下げて道をこちらへ向かって歩いてくるエドルヴァルド・ムンクの《殺人者》(1910年)はマネ作品から30年後の作品だが、ムンクの狂った衝撃性はないとしても、マネのこともなげ風な死の描写はいま見ても新鮮だ。歴史画、聖書画の血みどろではなく、そこいらの風俗としてのありふれた死。マネはやはり新しかった。

 
 さて、『テレーズ・ラカン』が影響を与えたといわれる一枚の絵がエドガー・ドガの《室内》(1968〜69年)である。ドガはこの自作に《強姦》というタイトルをつけていた。影響を与えるとは、絵が小説の挿絵のように感じられるということである。


 暗い室内。男がドアのところに立ちつくしている。
 うずくまり、剥かれたようにはだけられ白く浮かぶ女の肩を見れば、二人の間になにかあった、しかも歓びが支配するなにかではなく、男の一方的な暗い情動によって引きおこされたなにかがあった、とこの絵を読んでも無理のないところだ。床にはこの女性の衣類らしきものが落ちている。なにより、絵のトーンそのものが暗い。
 《室内》は『テレーズ・ラカン』のどの場面にふさわしいか?


 「ロランは後ろ手に、念入りにドアを閉めると、しばらくそこに寄りかかったまま、どぎまぎした様子で、不安げに部屋のなかを見回した。」で始まる21章だ。部屋に黙したままのテレーズの特に次のような描写――。


 「キャミソールがすべり落ちて、黒髪になかば隠れたピンクの肩がちらりと見えた。」


 2010年はクライム・アートにとって記念すべき年となった。フランスのオルセー美術館での大規模な「犯罪と刑罰」展(3月16日〜6月27日)が開催されたからだ。この展覧会のメイン・アイコンとして使われ、豪華でとてつもなく分厚いカタログの表紙にも使われたのが、このドガの《室内》(《強姦》)だ。
 カインの最初の殺人=弟殺しの図像にはじまり、ギロチンがらみの切断頭部集成、フランスの実録犯罪雑誌紹介、そして、シュルレアリストの犯罪幻想ヘと、想像上、現実上でのおぞましい殺しと処刑が連続する。さすがフランス、年齢制限とかはないので、子供たちがキャツキャと切断首を前にはしゃいでいた。
 恐怖と笑いが隣り合わせということを実感するのが、作家でもあるヴィクトル・ユゴーの《処刑》(1857年)だろう。プロの画家のだれも思いつかない奇想を墨筆の自在なタッチで描いている。事態が把握できないがなんか気持ちいいぞ、という風情でポーンと首が宙を飛んでいて、遠くに刃が落ちたギロチンが見える。文字通りのぶっ飛び感覚はほとんど『ワイルド・アット・ハート』のデイヴィッド・リンチだ。
 はたして、観客が会場の最終コーナーで遭遇するのが、2003年制作のリンチ作品なのだった。2006年、カルチィエ財団現代美術館のリンチ展 The Air is on fire の時、展示されていた大作である。


 ソファーでショーツを半分ずりおろした女に、ナイフを手に男がこう呼びかけている。吹き出し文字はこうだ。do you want to know what I really think?  そのまま書かれた文字を再現したが、これが作品タイトルでもある。女の傍らには NO の文字が描き込まれている。オレが何を考えているか教えてやろうか? やめて!
 「犯罪と刑罰」の展示の流れのなかに置かれると、この作品がドガ《室内》のリンチ・ヴァージョンとわかる。どうみてもレイプではおさまりそうもない。


 リンチといえば、ドイツのマックス・エルンスト美術館で昨年の11月22日から今年の3月21日にかけて大規模な個展「Dark Splendor」が開催された。<暗い豪奢>とはすばらしい。アメリカン・シュルレアリスト=リンチの展示会場として、シュルレアリストの名を冠したこの美術館ほど適した場所があろうか。
フランス展に負けじとドイツ展のカタログもまさに豪奢。内容の多くはカルチィエの時の展示作と変わらないが版画を含め、新作の大作もいくつかあって、そのひとつが pete goes to his giRlfriend,s House (書かれた通りに記載)である。<ピートがガールフレンドの家を訪れる>。青春の一挿話と思えるいいタイトルだが、他ならぬリンチである。クライム・アートをプリミティブな造形力で牽引するリンチである。いい話になるわけがない。
 男の右手にはピストル、左手にはナイフ。家の窓の女の悲鳴…。